『ドグラ・マグラ』夢野久作 読了
ドグラ・マグラ、上巻を読んだので、ラストはどうなる?と期待を大にして下巻を読むことに。
読了しました。娯楽の集結という感想です。
読むと頭の中で、めくるめく広がるスクリーンが上映されだし、サイレント・ちゃんばら・刑事ドラマを堪能。そしていよいよ終盤に差し掛かり、絵巻物の章(と勝手に章とさせていただきます)には時間を忘れて最後までドップリ浸かって読みました。
そうではないか、こうしてみないか、と登場人物らが病棟から開放されて生きていく道を青年に提示するが、自分の意思ではない自己を生きることを青年は拒否する。そして再び、自分とは? (と問いは続いていく)
下巻の終わり、なだいなだ さんが解説されていました
この小説を読んで誰一人わかった、といいきれるものはいないだろう。
誰もがわかったような気がするのが、せいぜいだろうと思う。
だからこそ、これまで多くの人が、さまざまな解釈をしてきたのだ。
そして、その解釈があきらかにしたのは、小説の世界よりも、解釈者自身の世界の方だった。まるで、ひとつひとつの解釈が、解釈者の内面世界を写し出す鏡のようなのである
上巻に比べると下巻は落ち着いて読めました。言葉って面白いですね。上巻では地獄のような文章を理解しようと苦しみ、下巻では古語の章もありまして、ここは瀬戸内寂聴さんあたりに古語を慈悲でもって、私のような無知でも読める現代文に訳してもらいたい、などと思いながらスッ飛ばして読みました。
さて、私の解釈ですが、ドグラ・マグラって無意識からポっと浮かび上がる、浮かんでは消え、同じものは二度と浮かんではこない、詩に似たようなものかなと感じております。私の場合ですが、食器を洗っている時とかシャンプーしてる時、ボーっとしてる時なんかに「そういうことか」と説得力のある内容のことがポツリと浮上することがある。よほど気に止めておかないと、あれ?さっき何を思ったんだっけ?とスグに忘れてしまう。それは、とりたて日常に差し支えのあるような内容ではなく、忘れたところでドって事はナイ。けど自分にとって何か重要なことのような気がせんでもない。もしそれを、全てを書きとめていったとしたら、自分は何者かという問いのヒントになるのでは。などというのが私の解釈、私のドグラ・マグラ。そして、小説から学んだのは、ドグラ・マグラの挑発には乗らないこと。 人生を費やし人生を棒に振ってまで自分探しに拘るのは避けたい。自分とは?今ブログ書いてるのが私です。これから更新しようとしています。これが私です、何か?
- 作者: 夢野久作
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1976/10
- メディア: 文庫
- 購入: 49人 クリック: 1,605回
- この商品を含むブログ (383件) を見る