『まほろ駅前狂想曲』 面白かったです
まほろ駅前シリーズ第3弾です。
ぐいぐいと物語りに引き込まれながら、読み干した一冊!
秋には映画が公開されるみたいで、今から、とても、楽しみです。
- 作者: 三浦しをん
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/10/30
- メディア: 単行本
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便利屋稼業を営む多田啓介と、三年居候の行天春彦は、高校の同級生。この二人が、きな臭い客の依頼をも引き受けていく。
私は、このシリーズ一作目の まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫) タイトルに引かれて買いました。
便利屋稼業に、自分の仕事(福祉・訪問系)を投影してしまうのです。
多田の視点に、そうそう、そうなの!と、思わず感情移入します。
・便利屋は他人の家に入り込んで仕事をする。必然的に依頼主やその家庭の、個人的な事情が垣間見えてしまうことが多い。
・多田の仕事の現場には、爆弾がたくさん埋められている。巧妙に隠されている場合もあれば、見つけて欲しいと言わんばかりの場合もある。
それらすべてを、いちいち踏んで爆発させていたのでは、こっちの身がもたない。いつもどおりの歩調で、涼しい顔で、無傷のまま地雷原を通りすぎたいものだ。
地雷のような、踏んではいけないもの、ってあるんですよね。けれど、それらがあるのは、当たり前のことで、踏んだ後、自分の無神経さが問われます。
ひととひととのつながりは、本当に多種多様で謎だらけだ。便利屋としてたくさんの家にお邪魔し、さまざまな夫婦や恋人や親子の関係を目にしたが、同じかたちはひとつもなかった。
小説の中で、多田は、私の心情を見事に今回も語ってくれる。仲間だなぁと、錯覚してしまう。
そして今回、四歳児の女の子を長期に預かるという依頼を引き受けることに。
しかし、行天は、幼少時のトラウマから、子どもを嫌う。
子どもをみると危害を加えてしまう、と行天は自分自身を恐れる。
が、多田は、行天を信頼して、そんなことはないと。
行天と女の子を二人っきりにさせます。
躾と証した厳しい扱いを、母親から受けて育ったことがトラウマとなってる行天。
大丈夫なの!?と多田の居ない空白の時間どうなのよ?とハラハラしながら読み進めると、行天は、女の子に朝食の目玉焼きを調理。なんとかなったようです。
多田もそうですが、行天も献身的ですね。
・この世界は狂気などにあふれてなどいない。愛と信頼が、なぜかときとしてひとを誤らせ、他者を傷つける凶器に変わることもあるという、残酷で皮肉な事実が存在しているだけだ。その事実のみをもって、愛と信頼のすべてを否定し、世界を嘲笑し、自分のなかの善と美を希求する心を封印してしまうのは、愚かなことだろう。刺しこまれた凶器を引き抜き、もう一度自分の傷口をえぐるようなものだ。
・愛したい。その思いだけは、何度傷ついても埋没することもかすれることもなく魂に刻まれて、生命活動をつづけるかぎりひとを突き動かす。(中略)
理解したい、求めたい、愛しあいたいと願う気持ちは、息をしたりものを食べたりするのと同じように、本能としてインプットされているとしか思えない。
そして、行天の超然とした様を支えている指針かもしれないセリフが印象深い。
「大事なのはさ、正気でいるってことだ。おかしいと思ったら引きずられず、期待しすぎず、常に自分の正気を疑うことだ」
「自分の正気を?」
「そう。正しいと感じることをする。でも、正しいと感じる自分が本当に正しいのか疑う」
行天のありえない奇行の数々、これを聞かされた小学生男子も戸惑うのですが。
終盤では、駅前で、出来事が交錯します。まさに狂想曲。
ここで一挙に情景がパノラマ化し、ぐいっと物語りの中に引っ張りこまれ、情動を揺さぶられました。
面白かったです。
映画が待ち遠しい!早く観たーい
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