ショックポイント時こそ平常心を
生きづらく思うのは、この世は、「苦」であるのを知らないでいたからか・・
釈迦は、この世に生きることは、苦しみに充ち満ちていると、教えていたそうです。
そして、その苦しみを減らす鍵は、平静すなわち「平常心」である。
平常心の基本的な態度とは
「心は浮き沈みするものである」と認識し、「あるがままの心」をまず受け容れる。そして、周囲の出来事に対しても、「そのようである」と受容し、判断を捨て置く
平常心のレッスン
①心とは、常に揺れ動いている
「心とは、そういうものだ」と認識して、その事実を受け容れる。
心とは浮き沈みするものだ、調子に乗らず、落ち込まず、「そういうもの」という態度をとるよう心がけてあげるといい。
②周りの状況を「いい」「悪い」と判断しない。
「そのようである」と捉えて判断を捨て置くと、心はホッとする。なぜなら、判断を繰り返すことは、疲れるから。
③心を子供のように扱う。
叱ってばかりでは、疲れてしまう。
慢=プライド(プライドというのは比較対象としての座標が必要なものである。較べるのは、他人とだったり、自分のセルフイメージだったりする。較べる対象があって初めてプライドは成り立つ。このプライドのことを仏道の言葉で「慢」という。人間は慢によって、常に他人と較べ、自我イメージと較べながら生きている。平常心の対極にあるのが自我=プライド)
慢<プライド>に従って心の状態を「いい」「悪い」で裁いてばかりいたら、心は息苦しくなって、居場所を失い、つぶれてしまうことになりかねない。親が子に対して強い力を持っているように、慢=プライドも長い時間をかけてつくられたものなので、強力である。
思い通りにいかず、落ち込み、心が苦しいときこそ、そのことを思い出して、「今は、そのようである」と心の状態を受け容れる
④心の揺れ動きをモニタリングする。
「反応パターン」これが好き、これが嫌い。
「条件反射のパターン」人それぞれの基準でプライドを持ち、基準に執着し(平常心の「捨」とは対極にあるもの。捨て置くことができないもの)人と較べては、自分の方が勝っていると喜び、負けていると思っては落ち込むなど。
自分の認知の仕方、考え方の癖を、客観的に認識する。心の動きを観察する。
心をモニタリングすることによって、心の動きにどっぷりと浸かる事を防ぐことができる。続けることによって、執着していること、どこに「慢」があるのか、どこで条件反射をするのかがわかってきて、心の浮き沈みの幅を少しずつ小さくしていくことができます。焦らずモニタリングを続けることで、平常心に一歩ずつ近づいていくことができます。
喜怒哀楽について
「喜」は嬉しくて大興奮している状態であり、この動的な興奮は、脳内でドーパミンという神経伝達物質が大量放出されているようです。
これは快い状態であり「快」であるが、ドーパミンというのは、不足による不快と密接に繋がっている。
そして、快楽というのは、慣れが生じるようで、次第に満足できなくなり、もっともっと、と希求する(ドーパミンを多量に求める)更なる強い刺激を欲しがる。
しかし、これは、心理レベルでは、ストレスの状態であるようです。
「喜」は、無いより有る方がいいかもしれませんが、ほどほどが、ちょうどいいですね。
「怒」「哀」起きてしまった物事を受け容れたくない、拒絶したいという心理であり、「不快」な状態。
ここでは、脳内で、ノルアドレナリンを分泌させているようです。
このノルアドレナリンの回路を活性化してしまうと、自動的に再現してしまうのだとか。パターン化というものでしょうか・・
これは、身体と心にとっては、とても辛い状況です。
わけもなく不安になったり、先読みして恐れを抱いたり。
それらを放置せず、その命令のままに動くのではなく、「また、神経システムによって不快を感じさせられているんだな」
と認識することで苦痛は緩和される
普段からの自己認識の積み重ねにより、苦痛は取り除かれ、落ち着きを取り戻すことができる。
ニュートラルに戻して、「今、ここ」かな。
力みを離れ、柔らかく受容しつつ、心の揺れを静めることのできる柔軟性のなかに平常心というものがある
「楽」とは
「喜」よりも緊張が緩和されていて、リラックスして安らいでいる状態。ゆったりとした静的な快適さ。
「楽」も「喜」と同じく、「快」の状態。
「楽」は、セロトニンという神経伝達物質を脳内で分泌するようです。
セロトニンは、行動に対して抑えたり、鎮めたりし、抑制的な作用があるようです。
感情の起伏は、脳がつくっているともいわれており、「楽」にスイッチを入れることで、セロトンが分泌されるとあるなら、実践甲斐のあるレッスンではないでしょうか。
しかし、この、セロトニンには、「自己受容体」というフィードバック機能があり、分泌量を量り、「これぐらい出たのでもういいでしょう、そろそろ分泌量を減らしましょう」という機能が働き、その結果として、再び、心の波立ちがよみがえってくるという仕組みなっているようです。
心を「いま」に専念させる活動を毎日毎日続けて一定期間、継続的にセロトニンを放出しつづける状況をつくってやると、
「セロトニンがもう充分に出ているから分泌をやめましょう」ということにはならず、恒常的に分泌される状態になる。
そうすることで、 自己受容体の数が減り、リラックスした状態で生きてもいいのだ、となってくるようです。
あるがまま 平常心とは対極にあるコントロールや条件反射、いい、悪いなど。
その力を手放すことで、力を手放すことになる。
コントロールしたいという緊張感を手放す。
「生じ、続き、滅してゆき、永続しない」
「楽」も生まれては、やがて、消えいくものにすぎない。
喜怒哀楽
怒と哀は、ノルアドレナリンの命令である。
喜と楽、「もっともっと」はドーパミンの命令であり、快を追い求めていくとき、必ず足りなくなって苦しくなる
コントロールの及ばないないものに対しての力みに気づいたときは、まぁいいか、と。
自分に対しても、まぁいいか。
世の中は、理不尽なもの。「そのようである」
身の丈で、分相応で、生きていく。
背伸びはしない。
いま、ここ、自分に立ち返ることを思い出して、平常心。