分かちあいたいブログ

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浮世をサイバルするには

どうやら、残念なことに、 世の中の善とは、大半が偽善であると。・・ しかし、 たとえ、偽善であったとしても、偽と善の比率が重要であり、偽善の偽の方ではなく、偽善の善に、焦点を合せて関わるのが、健やかさを保つためにはいいようです

 

偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル

偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル

 

 完全なる善というのは、お釈迦様の境地であり、気づきを伴った軌道修正により、自然体で、偽よりも、善の割合を多くすることができるようになると。

しかし、そこで、道徳とかいう善悪による価値判断が問題として浮上してきます。

 前半では、道徳について、書かれています。

●道徳のお説教

「そうするのが正しくて当然なのに、どうしてあなたはその当然のことができないのか。あなたは間違った人間である。それぐらいできるようになりなさい」

 

この、 「すべき」という価値観を作り出した思考のからくりには、脳内ストーリーというのものが起因しているようだ。

私達は外から入ってくる情報を、それぞれの人が自分の脳内で勝手に編集します。

仏道の立場からいたしましたら、どの意見も外から入ってきた情報を勝手に脳内で編集した結果に過ぎませんから、どれが正しくてどれが間違っているということはありません。

ところが私達は自分の意見を作った瞬間に自動的に「この意見は正しい」と思い込み執着する傾向があります。しかも他人も皆、その人それぞれの都合に応じて情報を脳内で編集し、それぞれの意見を作り、しかも「自分の意見は正しい」と思っているのです。ですから、誰かが自分の意見を主張いたしますと、必ず誰か他の人が自らの意見を傷つけられて不愉快な気分になります。         

 そうであっても、世の中全てを否定せず、偽善で満ち溢れているのだと、受け容れると、何パーセントからの善から、何かしらの気遣いが察知できるようになるのだとか。

しかし、それは、簡単なことでは無いみたい。

 

無我ショック

一つひとつの心を見る度に「この自分!」という思い込みにボディブローが食らわされます。あまりにも高速にボディブローを浴び続けます結果、ついには自分という感覚がノックダウンされて、パーンと弾け飛んでしまうのです。ですから「無我」とは単純に気楽で心地良いものとは申せません。それどころか、無我を体験する直前までは「我」が抵抗するので、私達の日常的感覚にとってみれば、とても嫌なものなのです。

 

 自分にも人にも、優しくありたい。

相手を変えようとすることは、無我ショックの打撃を与えようと、仕掛けていくわけで、これは、奴隷になれというのと同じですね。

 不毛な闘いに終わるのが、目に見えます。

 

 後半は、無自覚に使う善悪について、禅的な考え方で、自覚的に善悪をつかいこなす方法が書かれています。

 

読み終えて

 そういうものなんだなぁと納得した感がある。私の自我は、ことごとく、打ちのめされてきたので、あれは、無我ショックだったのだなと振り返ることができた。

幸い、福祉を仕事にしているので、偽善の善の割合が高い人たちとの出会いが多く、小池氏の書かれていることに共感する。

最近は、福祉就労の現場でも、業務に取り掛かる前に、丹田呼吸を取り入れる事業所がみられるようになっている。

座禅とまではいかなくとも、呼吸に注意を向けることが心身にとって良いことだと、認識されつつあるが、今ここ、に集中するには、実践の継続が必要のようだ。

 

「君の為を思って」というオセッカイ。この偽悪についての考察にも、その通りだなと、読んでスカッとしました。

 おすすめ!! 

 

偽善入門―浮世をサバイバルする善悪マニュアル

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