『リハビリの夜 』 熊谷晋一郎を読み。とっても官能的
『リハビリの夜 (シリーズ ケアをひらく)作者: 熊谷晋一郎』を読んだ。
「身障者と健常者」の隔たりを利用者の態度や言葉から感じることがある。理解に一歩近けるだろうか。紐解くようなヒントを見つけてみたい。
- 作者: 熊谷晋一郎
- 出版社/メーカー: 医学書院
- 発売日: 2009/12/01
- メディア: 単行本
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内容紹介
痛いのは困る。気持ちいいのがいい。
現役の小児科医にして脳性まひ当事者である著者は、あるとき「健常な動き」を目指すリハビリを諦めた。
そして、《他者》や《モノ》との身体接触をたよりに「官能的」にみずからの運動を立ち上げてきた。
リハビリキャンプでの過酷で耽美な体験、初めて電動車いすに乗ったときのめくるめく感覚などを、全身全霊で語り尽くした驚愕の書。
「私」たちはまなざしによって「私たち」にさせられる。「私たち」はそんな大人たちのまなざしを避けるように、畳の敷かれた大人のいない休憩室へと這っていく
この箇所は突き刺さる。
Aさんは、「誰にも会いたくない」と通院時は大きな帽子とマスクで顔を隠し、待ち合いでは俯いていた。
・焦りの中で体は徐々にこわばっていく。・焦りとこわばりの悪循環は、腹ばい競争のときと同じように、やがて私を敗北の官能へと導き、私の動きはだんだんと無秩序無軌道なものになっていく。
・焦って高ぶる私自身が自壊するように「一気に」ほどける
この《まなざし/まなざされる関係》《ほどきつつ拾い合う関係》は結局はほどけるのだが、異なる点があるという。
・《ほどきつつ拾い合う関係》のほどけは、ほどけた後に支えてくれる他者への信頼のなかで身をゆだねるようにして起きるのに対して、《まなざし/まなざされる関係》のほどけは、他者からの命令に自ら「主体的に」従おうとして、一人で自爆するように起きる
・ 前者が安全な気持ち良さに対して、後者は恐怖心が入り混じったような鮮烈な官能である。
動作を失敗して敗北感を感じるというのは利用者の方から聴くことがある。
《ほどきつつ拾い合う関係》を築けたら、苦情も減りそう。
熊谷氏は、これを触れるように触られたいと述べている。
官能的です。
・ストレッチに限らず身体への介入を伴う関係においては、「触れる」「触れられる」が繰り返される。「触れる」という経験と「触れられる」という経験は、どちらも皮膚に何らかの異物が接触するという意味では同じだが、「触れられる」のほうが「触れる」に比べて、これから入ってくる感覚についてその質や量、タイミングについての予想が事前につきにくいために、びっくりしやすい。
・相手の中に入り込んで「触れる」側とまなざしを共有することで、これから入ってくる感覚についてその質や量、タイミングを予測しておく必要がある。「触れるように触れられる」工夫とでも言ったらよいだろうか
それとは間逆の《加害/被害関係》とは
意味の分からない刺激に予期しないタイミングで襲われるということほど恐ろしいことはない。次に相手がどんな所作を繰り出すのか全く読めない状態というのは、過度に私を緊張させ体が硬くなってしまう
たとえば、入浴の介助時(ヘルパー支援ね)どこから洗うのかも聞かされず、突然に身体をゴシゴシされて湯をバシャーってされたら、誰だって驚くだろう。(ドリフターズを思い出した)虐待とまではいかなくとも、恐怖を感じるというのは分かる。
このテの苦情がきたとき、私は説明に困っていた。せいぜい、基本である声掛けを忘れないでね、とヘルパーさんに言って、それ以外に何かバシっとくる説明を持っていなかった。
が、この熊谷氏の官能的な説明は腑に落ちた。
嚥下に問題があるわけでない利用者の食事介助の場合、利用者の手の変わりをするわけだが、それをどう介助すればいいのですか?とヘルパーさんから更に詳しく教えてくれと訊かれる時がある。私からは、子どもさんで練習するか、ご主人さんにアーンて言って食べさせてあげてみて、とアドバイスする(子どもさんもご主人さんも居ない場合は私がモデルになるけど・・)介助が荒っぽいならご主人さんから指摘を受けるだろうし、場合によっては喧嘩になるだろう、子どもならママの荒っぽさに泣き出すかもしれない。 そうやって感覚を研ぎ澄ましていく以外、官能をマニュアルでマスターするのは無理だろう。
《まなざし/まなざされる関係》《ほどきつつ拾い合う関係》《加害/被害関係》
隔たりを感じなくなることは難しいと思うが、この三点を意識して関わっていくことはできると思う。学びのある一冊でした。