アイデンティティ
小池龍之介さんの書籍 「我」を張らない人づきあい (仏教対人心理学読本) を読みました。
煩悩を紐解いていくと、無我の境地に至る。
そして、慈悲の心を持つことができるようになる。
自己探求の旅のお供に、極意の一冊。オススメ!
読書メモ
自我は存在しない
・なぜ、自我に関する刺激はビリビリビリと強烈で、心が繰り返し繰り返し、それについての刺激を浴びたがるのでしょうか。すなわちなぜ、「特別な自分」を実感して酔いしれたがったり、それが実感できぬときにものすごく悲しくなって打ちのめされたり、という刺激に浸りたがるのでしょうか。
・その答えは一つ。自我は存在しないからです。
本当は存在しないものを、存在するかのように錯覚させるためには、絶えずビリビリッと刺激を受けている必要があります。
なるほどぉ・・自我が織り成す”私”を支えるために、ビリビリッと電気ショックのような刺激に反応させる必要があったのですね。
だけど、それは、煩悩なので、”苦”だと。
隠された無我の真実
・「そもそも、この自分などというのは、どこにも存在しないのではないか」
という無力感。「無我」という真実が私たちを脅かしています。
その真実を必死で見ずに済ませるように私たちの心がプログラミングされてしまっている
「自分は確かに存在する」という錯覚を味わうために、次から次へと自分の存在価値を確認するための刺激をインプットしなければならないのです。
・本来私たちが感じることのできる刺激は、苦しみしか存在いたしませんのに、欲望という魔法のプログラムによって、あたかも、自我に関する刺激が快楽であるかのように勘違いさせられてしまうのです。実際は、心も身体もダメージを受けていますのに。ともあれ、そうして書き換えられた刺激をもとに「自分は確かにここにいる」という幻覚を発生させることができますでしょう。
認めて欲しい、受け入れて欲しい、愛を確認したい、などなど他者からの承認によって、やっとこ自分が確認できるような気がするから、相手と欲求の争奪戦を繰り広げる。奮闘する。
しかし、それは、おっしゃる通りで、ダメージをうけている・・
けれど、ダメージを受けていることは絶対に認めたくない。
だって、認めたら、手に入らないことを受け入れなくてはならないから。
無我とは、自我にとっては恐怖そのものです。
変換プログラム停止スイッチ「悟り」
「自分が苦しみの動力によって動かされている」ということを知ってしまうと、人間の心に、「そんなものに動かされたくない」という革命、すなわち「悟り」が生じてしまいますから。隠蔽され、自分を操っているのは苦しみで、刺激はぜんぶ苦しみであるということが見えぬように、十重二十重に認識がゆがめられ、「そんなことは認識したくない。暗い思考だ。嫌な考えだ」と、それから目をそむけたくなるよう仕組まれてしまっているのです。
この何重にもロックされた鍵を少しずつ開けていき、自らの心の流れを観察し、強い集中力をもって観察する力が身についてくるに従って、私たちの心は変化していきます。
自我には諦めてもらいましょう。ここまできたら、自我も相当疲れてるはず。
自らをだましつつ「苦」により自分をいたぶるのをやめ、少しは慈(やさしさ)によっていたわってあげること。そしてその慈(やさしさ)による余裕ができたら、他人様にも慈(やさしさ)のおすそわけをしてさしあげることです。
心の自動的情報処理を停止していくに従って、ムズムズムラムラしながら苦しみに鞭打たれたり、大切な人々に迷惑をかけたり、衝突したりということは、圧倒的に少なくなっていくことでしょう。そのムズムズから開放されて初めて、自分に対しても他人に対しても優しくなれる、すなわち、慈悲の心を少しずつ形成していくことがかなうのです。
自我を手放したら、慈悲が手に入る。この、慈(やさしさ)を求めて、自我は暴君となっていたのかな。
他の誰かが持っていそうな気がしてたけど、慈は自分の中にあったのですね。
私がイメージしたのは、タロットの愚者のカード。
最小の荷物と巡礼者の杖を持ち、実在を探求しはじめた途端、珍獣に噛み付かれる。が噛み付かれても愚者は旅をすすめていく。
愚者といわれようとも探求の旅はやめない